※あくまで個人的

京大医学部の偏った日常

死ぬ気でやれという言葉の違和感

突然ですけど、熱血な教師とかが「死ぬ気で勉強しろ。死なないから。」など言っているイメージは想像に難くないと思います。僕の人生ではあんまりそういう教育者に出会ったことはありませんが、この言葉に違和感を感じるようになりました。


昨日の小学生の殺傷事件のことがきっかけです。


死ぬ気でやれという言葉の効用は、死ぬことを考えれば目の前の課題をこなすことくらい簡単なことだから出来るであろう、と思わせることだと思います。つまり、この言葉は死ぬ気のない人間に使うことに意味があるんだなと思いました。


逆に死ぬ気が人間にとっては大変危険な言葉になり得るという事を今回の事件で感じました。死ぬ気さえあれば何でも出来てしまうという意味も持つからです。例えそれが何の罪もない児童に切りかかると言ったことでも肯定されてしまうのです。


今回の件をみて、死ぬ気で勉強するとかはあまり使いたくないと感じました。前も書きましたけど、勉強させたいなら勉強する意義を説いたらいいんですよ。理論を展開していく仕組みを理解するのって地道で大変ですけど、分かったらなかなか楽しいですよ。分かることの意義さえちゃんと共有できたらゴールは決まる訳ですし、死ぬ気でやらなくても努力出来るんじゃないかなあと思います。